Kの日記

多弁な人は文字であろうが音声であろうが何か言ってないと死んでしまう。

例えばの話

例えばの話だが、ここにクラスの雰囲気と担任に耐えれなくなって学校に行きたくなくなった男子生徒がいたとしよう。では彼の周囲の人間がとるべき行動の最適解はなんだろうか?

一番の正解は何もしないことだ。ノータッチ。単位が足りないのだろうが無関係。一見なんとも非人情だと思うだろうがよく考えて欲しい、そもそもの原因はその男子生徒にあるのだ。学校が辛い人なんていくらだっているし、それでも無遅刻無欠席できてる人だっている。結局ドロップアウトするのは自己責任だし、いくら周りが悪くてもそいつの人生だ。それになんで真面目に学校に行っている人よりも行かない人の方が周囲の人間からケアされなくてはならないのだろうか?学校に来ない奴に「みんな待ってるから。」と微笑みかけるより毎日時間通りに登校している人に「ちゃんと登校して偉いね。」と伝えるべきだ。

しかしながら、不登校の生徒に優しくすることは決して絶対悪ではない。上記の説明と真っ向から対峙することになるが、確かに不登校生徒とは得てして他の生徒よりも学校を遠ざける理由が不幸的にも積み重なっていることが多い。依怙贔屓というわけでなく、マイナスを補うという形で周りがその問題を解決しようとするのはまあいわゆる人情という奴だ。しかしこの場合ケアされた奴は周りに負い目を感じるべきだ。開き直ったクズほどタチの悪いものはない。義理は通すべきだ。

では最悪の選択肢はなんだろう。それは中途半端に学校に来いと勧告しながら、根本的な問題を解決しないことだ。登校を勧める教師というのは不登校生徒に対して「義務的措置」か「道義的措置」のどちらかをとっている。自身の教師としての評価を下げない為に生徒を学校へ戻す前者もしくは純粋に彼のことを考えた後者でありそのどちらも行動に出ている以上優劣差は無いが、どちらにしろ結果「生徒が登校しただけ」になってしまえば何の意味もない蛮行だ。

学校に行きたく男子生徒の彼は崩壊していく精神を学校に行かないという選択肢でなんとか保っていたのだ。骨粗鬆症の患者が自らマラソンをするだろうか?しない。するわけがない。言うなれば俺は精神粗鬆症。支える組織がカッスカスな訳です。じゃあ患者がマラソンをする為にはどうするべきか?それは無理矢理走らせることじゃなくて、ちゃんとした治療とリハビリでしょう?つまり社会的規範や、周囲の評価を持ち出して学校に来させることは、モーターで動く歩行補助ロボットを骨粗鬆症の患者につけて死にそうになりながら走らせるのと一緒。発散されなくなったルサンチマンはどこへ行くのか。でもそんなことをするあいつのことも許してやろう。愛をあげよう。社会はバレンタイン色に染まる。愛をあげよう。御機嫌ようと宣う高飛車に愛をあげよう。愛をあげよう。